京都 大山崎散策④ 大山崎町歴史資料館と離宮八幡宮

大山崎に行った折に大山崎町歴史資料館(入館料200円)にも寄りました。
こちらの主な展示内容は3つ。
①千利休が建てた茶室「待庵」の原寸大複製
②羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀の「山崎の合戦」関係資料
③離宮八幡宮の油人について

①の待庵は、JR山崎駅のすぐ近くにある妙喜庵というお寺の中にある日本最古の茶室で、国宝です。
妙喜庵の見学は事前予約制になっているので、予約をしていない方は歴史資料館の方で見てください、とお寺の入口のところに書いてあります。
ということで、資料館の方に行きました(笑)
茶室は小さく、それほど変わった印象はないのですが、ここが現在の茶室の元型というところに価値があるのかもしれません。
お茶の嗜みがないので、あまり良さというか違いがわからないというのが本音です ^^;)

②については、本能寺の変の後、秀吉が中国地方から大返しで戻り、山崎の合戦で光秀を破りました。
わずか10日ぐらいで230㎞を走破してそのまま戦をしたとされています。
資料によると、早い隊は3日で150㎞を移動したとのことでした。
うちがこの日、自転車で山崎散策をした走行距離が約50~60㎞で、見学時間や食事時間も含めてですが朝から夕方までかかり、結構へとへとになりました。
早い隊は騎馬兵だったのかもしれませんが、全員が馬に乗れるとは限らないので、10日で合戦をするには、毛利攻め用の兵力だけでは到底体力的にもたないと思いました。
秀吉は戻る先々で兵を集めたとされてますが、それにはかなりの大盤振る舞いが必要だったと思われます。
負け戦になると全てを失うことになるため、何がなんでも勝たなければいけない大勝負ですね。
秀吉にとって、まさしく「天下分け目の天王山」だと実感しました。
それにしても、山崎への道はなだらかですが上り坂になっていて、自転車で走っていても疲れました。
京都から来た光秀の方が地の利もあったはずなのに負けるなんて・・・。
光秀は信長を討った時点で気が緩んでしまったのですかね?
③については、大山崎は離宮八幡宮の神人が荏胡麻油(えごま油)を石清水八幡宮への灯油貢納したことから特権商人の座(組合)ができ発展しました。

こちらがその離宮八幡宮です。
JR山崎駅のすぐ近くにあります。
ご由緒は859年、清和天皇が神託により九州の宇佐八幡宮より分霊し、国家鎮護のため勅命でこの地に「石清水八幡宮」を建立したのが始まりだそうです。
この場所が嵯峨天皇の離宮の跡地だったので、現在は「離宮八幡宮」と呼ばれています。
淀川を挟んで向かい側の男山にある石清水八幡宮は、こちらからの分祀によるものだと、ご由緒書にはありました。
清和天皇の時代、離宮八幡宮の神官が「長木」というてこを応用した搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、製油発祥の地とされ、その後「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して江戸時代まで栄えたそうです。
境内には油祖像や油脂販売業者の標識などもありましたよ。
幕末、禁門の変の時、長州藩の屯所が山崎にあり、攻撃を受けて多くの商家とともに焼かれ、時代の推移もあり次第に境内の規模も小さくなったそうです。


この狛犬さんは昭和7年に奉納されたものです。
約90年前の狛犬さんですが立派ですね。

拝殿です。
御祭神は、主殿・八幡大神(応神天皇、神功皇后)、左殿・酒解大神、右殿・比売三神です。

摂社・末社はたくさんありました。
四角い石は宝塔の礎石です。

菅原道真の腰掛石もありました。
道真は九州に流される折、長岡天満宮に寄り、その後西国街道を通った時にここで休まれたのでしょうね。
見た目からして何やら立派な神社だなと思っていたのですが、石清水八幡宮の元社だなんて想像以上に格式のある神社でびっくりしました。
お参りできて良かったです。

長くなりましたが、これで大山崎散策シリーズはおしまいです。
この辺りの紅葉がきれいだったので、別の日に長岡京市、向日市にも行きましたので、近々記事にしたいと思います
またお付き合いをお願いしますね。
大山崎町歴史資料館
住所:京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字竜光3番地 Tel:075-952-6288
開館時間:9時30分~17時(入館は16時30分まで)
定休日:月曜(祝日の場合は翌日)、企画展・特別展の前後、年末年始、臨時休館あり
離宮八幡宮
住所:京都府乙訓郡大山崎町大山崎西谷21-1 TEL:075-956-021
ポチポチっと押してもらえると励みになります。

にほんブログ村
↑
ありがとうございます!
↓
スポンサーサイト