京都 乙訓ポタリング⑤ 勝龍寺城公園

向日市で向日神社、神崎屋に行った後、勝龍寺城公園に行きました。

この城は、細川藤孝が織田信長より勝龍寺城主に任ぜられ、堅固な城に改修したとされてます。
秀吉の時代には荒廃したようですが、江戸時代、永井直清が城主に任ぜられ修築しましたが、短期間で高槻城主に移封されると完全に廃城になったそうです。
この永井直清という人は、今回のシリーズの最初の記事で紹介した「八丁松原」の松を植えた人です。

天守閣みたいな建物は最近になって建てられたもので、今は公園として整備され、歴史ミュージアムになって無料で中を見学できます。
細川藤孝や明智光秀、城についての説明や資料、映像などの展示されていました。

外に出ると日本庭園になっています。
庭の各所には勝龍寺城の遺構が残っています。
石垣や土塁跡、転用石として使われた石仏などもありました。

ここは細川藤孝の息子・忠興と明智光秀の娘・玉が婚礼を挙げた城で、新婚生活もここで送ったため、忠興と玉の幸せそうな像が建っています。
この像は、大河ドラマの「麒麟がくる」の最終回の紀行でもでていました。


そしてこの城は、秀吉との「山崎の戦い」で敗れた光秀が退却した城でもあります。
光秀は少し休んで夜のうちに城を脱出し、坂本城に向かう途中で落命したとされています。
山崎の戦いの時には、もう忠興夫妻は勝龍寺城にはいなかったのですが、光秀が友人だと思っていた藤孝の援軍を期待したのでしょう。
与えられたのは一時の休息のみだったのが哀しいですね。

こちらはお城の名前の由来となった勝龍寺です。
勝龍寺城の南側にあります。
寺号は恵解山青龍寺、開基は空海、御本尊は十一面観音像の真言宗のお寺です。
大干ばつ大飢饉の年に千観(せんかん)上人の祈祷で雨が降り、龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名されたそうです。
本堂の中の拝観はされていないみたいで、境内のみの拝観です。
春日神社もありましたが、現在は工事中でした。

勝龍寺から大阪に向かって南に走っていると、山崎の合戦の光秀側の本陣跡という大きな垂れ幕を見つけました。
恵解山(いげのやま)古墳という古墳の上に陣を敷いたのですね。
今は整備されてきれいな古墳公園になっていますが、昔はこんもりした丘だったのでしょうね。

この公園の中は時間がなかったので写真を撮っただけなのですが、わかりやすい前方後円墳でした。
結構大きいなと思ったら、5世紀前半頃に乙訓(おとくに)全域を支配した首長のお墓だと推測されているみたいです。
埴輪の模型なども並べてあり、ゆっくり見たかったのですが、時間がなかったのでまた今度ということで帰りました。
自転車の走行距離は約70㎞。
帰った時は心地良い疲れでしたが、次の日、膝がガクガクでした(笑)。
今回のシリーズはこれで終わりです。
お付き合い、ありがとうございました。
次回は番外編として、向日市の神崎屋で購入した筍での料理を公開したいと思います。
へたっぴなんですけどね ^^;)
勝龍寺城公園
住所:京都府長岡京市勝竜寺13-1
開園時間:9時~17時(4月~10月は18時まで) 休園日:年末年始(12/28~1/4)
緊急事態宣言により 2021.4.26~5.31まで臨時閉園
勝龍寺
住所:京都府長岡京市勝竜寺19−25 TEL:075−951−6906
受付時間:9時~16時
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