京の冬の旅2012⑤ 長講堂
まだこのシリーズのお寺見学が残っているのですが、ちょっとお休みしてしまいましたので、18日までに全部紹介できるかあやしくなってきましたが、もうしばらくお付き合いをお願い致します

さて、今回ご紹介するのは「長講堂(ちょうこうどう)」というお寺です。
現在は西山浄土宗のお寺で、御本尊は阿弥陀三尊像です。
歴史的には、平安後期、後白河法皇が晩年を過ごした「六条殿(ろくじょうどの)」という院御所があり、その御所内に後白河法皇のプライベートな持仏堂として造られたのがこちらの長講堂の始まりです。
正式名は「法華長講阿弥陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)」です。
後白河院が莫大な荘園を長講堂に寄進したその寺領は「長講堂領」と呼ばれ、院政の経済的基盤になっていたのですが、法皇が亡くなる直前に寵愛していた丹後局との娘の宣陽門院覲子(きんし)内親王(後白河法皇の第六皇女)に寺領を譲られます。
長講堂領は承久の乱により一時幕府に接収されますが、第89代後深草天皇の時に返却され、それ以降は御深草天皇の子孫の系統の持門院(じみょういん)統によって継続されます。

皇室系統のお寺だからか、中はお庭も含めて写真撮影不可でした。
京都冬の旅では初公開で、普段は非公開のお寺です。

入口の辺は写真撮影OKなのかな?
この段階では、写真不可とは知らなかったので写してしまいました。
入口を見ると小さそうですが、結構敷地は広いです。
当初は、六条西洞院にあったそうですが、何度か火災に遭い豊臣秀吉によってこの地に移されました。
また、阪神大震災において被災したため、最近作り直されたそうで中は新しい感じがしました。
本堂には、法皇の念持仏であり臨終仏であった御本尊の阿弥陀三尊像(重文)が安置されていました。
平安時代の仏師定朝の流れを汲む院尊の作と言われているそうです。
どっしりとした大きな阿弥陀さまで、穏やかで落ち着いた印象を受けます
脇仏の観音菩薩さまと勢至菩薩さまも端整で、三尊とも美しい仏さまです
両菩薩さまともに、阿弥陀さまの隣ではない方の足を下に下ろされ、いつでも立ち上がって人々を救うための準備をされています。
この仏さまたちの前で、後白河法皇は臨終を迎えられたそうです。
後白河法皇という人は、大変信仰心が篤かったのか、熊野詣はなんと34回も参られたそうです。
当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態だったので、熊野信仰と仏教信仰が矛盾しないんですって。
それにしても、あの難所を34回というのはすごいです。
ご自分の足で歩かれたのなら、本当にすごいのですけどね
奈良の東大寺や興福寺が平清盛の命により焼討ち(南都焼討)されたのも、後白河法皇の勢力基盤の削減も目的の一つだったみたいです。
京都の三十三間堂を建立したのも後白河法皇ですしね。
では、後白河法皇のお顔ってどんな感じ?

じゃじゃーん!
って、もう既に冬の旅の看板を出してましたね(笑)。
おまけにポスターのアップ写真がピンボケ~
御影殿に安置されている後白河法皇の坐像です(重文)。
しっかりしたお顔をされていますね~。
案内の人は眼に力があり、ずっと一緒にいるとこわいぐらいと言われていました。
私はそこまでは強い印象を受けず、どちらかといえば優しさと軽快さを感じましたけどね。
この像は、毎年4月13日の法皇忌のみ公開されるそうです。
そして、「後白河法皇御真影」は50年に1度、宮内庁立会いのもと開封されるとのことで、ご住職でさえ一生のうち1回ぐらいしかお目にかかれないそうです。
なので、もちろん今回の公開でも御真影は拝見できませんが、複製が公開されていました。
私の好みは、彫刻の方です
この他にも聖徳太子像があり、この太子さま、色が美しい~
中に文書がたくさん入っていたそうです。
後白河法皇に縁のある人全部を記した法皇自筆の「過去現在牒」や、大きな数珠玉の中には法皇自身のミニ像や観音像が入ってる20mの大数珠、法然上人と善導大師の腹部に菩薩さまや阿弥陀さまが祀られている珍しい像などいろいろ寺宝があります。
本堂の方だったかに、飛天のような絵が描かれていたのですが、その飛天が美しい!
現代に描かれたことは一目見て誰にでもわかるのですが、誰が描いたのか知りたかったので案内のおじさんに聞いてみたら「あぁ、これは最近のもの」の一言で終わってしまいました
お寺の方に聞けば良かった。
きっと、名のある画家かこれから名が上る画家に違いないと私は思っています。
滅多に拝観できないお寺です。
おススメですよ
長講堂 住所:京都市下京区富小路通六条本塩竃町
特別拝観日程:'12.1.7~3.18まで(日曜の午前は拝観休止) 拝観時間:10時~16時 拝観料:600円
京都市観光協会 京の冬の旅非公開文化財特別公開


さて、今回ご紹介するのは「長講堂(ちょうこうどう)」というお寺です。
現在は西山浄土宗のお寺で、御本尊は阿弥陀三尊像です。
歴史的には、平安後期、後白河法皇が晩年を過ごした「六条殿(ろくじょうどの)」という院御所があり、その御所内に後白河法皇のプライベートな持仏堂として造られたのがこちらの長講堂の始まりです。
正式名は「法華長講阿弥陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)」です。
後白河院が莫大な荘園を長講堂に寄進したその寺領は「長講堂領」と呼ばれ、院政の経済的基盤になっていたのですが、法皇が亡くなる直前に寵愛していた丹後局との娘の宣陽門院覲子(きんし)内親王(後白河法皇の第六皇女)に寺領を譲られます。
長講堂領は承久の乱により一時幕府に接収されますが、第89代後深草天皇の時に返却され、それ以降は御深草天皇の子孫の系統の持門院(じみょういん)統によって継続されます。

皇室系統のお寺だからか、中はお庭も含めて写真撮影不可でした。
京都冬の旅では初公開で、普段は非公開のお寺です。


入口の辺は写真撮影OKなのかな?
この段階では、写真不可とは知らなかったので写してしまいました。
入口を見ると小さそうですが、結構敷地は広いです。
当初は、六条西洞院にあったそうですが、何度か火災に遭い豊臣秀吉によってこの地に移されました。
また、阪神大震災において被災したため、最近作り直されたそうで中は新しい感じがしました。
本堂には、法皇の念持仏であり臨終仏であった御本尊の阿弥陀三尊像(重文)が安置されていました。
平安時代の仏師定朝の流れを汲む院尊の作と言われているそうです。
どっしりとした大きな阿弥陀さまで、穏やかで落ち着いた印象を受けます

脇仏の観音菩薩さまと勢至菩薩さまも端整で、三尊とも美しい仏さまです

両菩薩さまともに、阿弥陀さまの隣ではない方の足を下に下ろされ、いつでも立ち上がって人々を救うための準備をされています。
この仏さまたちの前で、後白河法皇は臨終を迎えられたそうです。
後白河法皇という人は、大変信仰心が篤かったのか、熊野詣はなんと34回も参られたそうです。
当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態だったので、熊野信仰と仏教信仰が矛盾しないんですって。
それにしても、あの難所を34回というのはすごいです。
ご自分の足で歩かれたのなら、本当にすごいのですけどね

奈良の東大寺や興福寺が平清盛の命により焼討ち(南都焼討)されたのも、後白河法皇の勢力基盤の削減も目的の一つだったみたいです。
京都の三十三間堂を建立したのも後白河法皇ですしね。
では、後白河法皇のお顔ってどんな感じ?

じゃじゃーん!
って、もう既に冬の旅の看板を出してましたね(笑)。
おまけにポスターのアップ写真がピンボケ~

御影殿に安置されている後白河法皇の坐像です(重文)。
しっかりしたお顔をされていますね~。
案内の人は眼に力があり、ずっと一緒にいるとこわいぐらいと言われていました。
私はそこまでは強い印象を受けず、どちらかといえば優しさと軽快さを感じましたけどね。
この像は、毎年4月13日の法皇忌のみ公開されるそうです。
そして、「後白河法皇御真影」は50年に1度、宮内庁立会いのもと開封されるとのことで、ご住職でさえ一生のうち1回ぐらいしかお目にかかれないそうです。
なので、もちろん今回の公開でも御真影は拝見できませんが、複製が公開されていました。
私の好みは、彫刻の方です

この他にも聖徳太子像があり、この太子さま、色が美しい~

中に文書がたくさん入っていたそうです。
後白河法皇に縁のある人全部を記した法皇自筆の「過去現在牒」や、大きな数珠玉の中には法皇自身のミニ像や観音像が入ってる20mの大数珠、法然上人と善導大師の腹部に菩薩さまや阿弥陀さまが祀られている珍しい像などいろいろ寺宝があります。
本堂の方だったかに、飛天のような絵が描かれていたのですが、その飛天が美しい!
現代に描かれたことは一目見て誰にでもわかるのですが、誰が描いたのか知りたかったので案内のおじさんに聞いてみたら「あぁ、これは最近のもの」の一言で終わってしまいました

お寺の方に聞けば良かった。
きっと、名のある画家かこれから名が上る画家に違いないと私は思っています。
滅多に拝観できないお寺です。
おススメですよ

長講堂 住所:京都市下京区富小路通六条本塩竃町
特別拝観日程:'12.1.7~3.18まで(日曜の午前は拝観休止) 拝観時間:10時~16時 拝観料:600円
京都市観光協会 京の冬の旅非公開文化財特別公開
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