京都市美術館 「京の閨秀・女流・女性画家」展('10.8.7 Sat)

ボストン美術館展の後、同じ京都市美術館でやっていた「京の閨秀・女流・女性画家ー担ったもの/担わされたものー」展('10.7.3~9.5まで。入場料500円。ボストン美術館展の半券提示で100円引き)を観てきました。
閨秀とは、学問・芸術に優れた女性、女流という意味なので、サブタイトルも見ず、京都の女流画家の展覧会だと思い、気楽に観てしまいました。
京都の女流画家といえば、上村松園。
上品で美しい女性像を多く描いていて、私の好きな画家の一人です。
今回も「人生の花」や「待月」などが展示されており、期待を裏切りません。
看板になっている広田多津の「母子」も淡い色使いに、親子の優しい情感が感じられいいなと思いました。

伊藤小坡や、この看板の横に使われている梶原緋佐子の「帰郷」も美しくて、良かったです。
だいたいにおいて、近代の女流画家の絵はきれいでいいのよね~

タイトルに、「閨秀」、「女流」、「女性画家」と同じ意味の言葉が3つも並んでいるのですから、そこからこの単語の意味の違いに思いを馳せるべきでした。
迂闊でした

明治以降の近代日本画の世界は男性社会で、上村松園も他の男性画家に意地悪をされたと聞いています。
同じ画家の世界だけでなく、一般の人からも女性が男性と肩を並べて、あるいは男性以上に女性が認められることに対する偏見があった時代ですので、男性と同じような絵を描くのではなく、あくまで女性らしさを追及する絵を描かざるをえなかったというのが、サブタイトルにつながっていくのでしょうね。
そういえば、竹内栖鳳、菊池芳文、都路華香、富岡鉄斎、上村松園、伊藤小坡の6人による「寄せ書」が展示してあったのですが、松園と小坡は隅の方に小さく控えめに描いてありました。
師匠格の画家と一緒に描くことの遠慮もあったのでしょうが、もしかしてその時代の女性として、男性に対する遠慮も含まれていたのかもしれません。


ですが、時代が進んでいくにつれ、「見て美しいもの」だけを表現するのではなく、女性の内面を描こうという画家の意思がでてきます。
それは、梶原緋佐子のこのチラシの表紙の絵「姉妹」(写真左)からもうかがえますし、この展覧会とは関係ありませんが、島成園の「無題」という絵などにも表されています。
島成園は、マスコミからかなりバッシングを受けたみたいですが(島成園の展覧会を観た記事はこちら)。
そして、もっと時代が進むと、絵の題材も女性であることから開放され、自分の描きたいものが描ける「今」に至るのでしょうね。
自分がそれほど「女性」ということに拘らないですむ時代に生きている私は、先人の苦労も見抜けないまま作品を単純に観て、美しい!いい絵だ!!と楽しんでいますが、それはある意味良いことなんだろうなという気もします。
それが、「女性」に拘らなければいけなかった先人たちの夢であっただろうと思うからです。
その反面、先人たちの苦労の上に今の時代があることを、忘れてはいけないとも思います。
この展覧会は、その両方を考えさせられる良い展覧会だったと思います

京都市美術館
住所:京都市左京区岡崎円勝寺町124(岡崎公園内) TEL:075-771-4107
開館時間:9時~17時(入館は16時半まで) 休館日:月曜(祝日の場合は開館)、年末年始(12月28日〜1月2日)
スポンサーサイト