映画「ラブリーボーン」('10年1本目)

ちょっと前の話になりますが、映画「ラブリーボーン」を観てきました。
この映画を観ての最初の感想は「なんてきれいな心の持ち主なんだろう!」ということでした。
もし、立場が変れば、はたして私はそんな心持ちになれるだろうか・・・。
話のあらすじは、自分の未来や青春にワクワクしながら生きている14歳のスージー・サーモンが、変態の罠にかかり殺されます。
スージーは、自分が殺されたことが理解できず、あの世とこの世の狭間みたいなところで生きることになります。
そこは美しい場所なのですが、初めは誰もおらず、彼女は自分の元の世界に帰ろうとしますが、スージーの方からは現世は見えるのに、現世の方からは彼女が見えません。
そのようなもどかしい状況の中で、スージーは家族や友人、そして犯人がその後どのような行動をとっていったかをつぶさに見ることにより、自分の身に何が起こったかを思い出していきます。
映画は、スージーの感情と、残された家族の感情がきめ細かく描写され、まるで心理学の障害等の受容の過程を見ているようでした。
ショック期から始まり、否認期、混乱期を経て、解決への努力期、受容期に到る、その長くて苦しいプロセスを踏んで受容に到ったため、彼女はあの世に行くことができ、その前にたった一つ自分の想いを遂げられるチャンスに、スージーの場合、犯人への復讐より自分自身が生きていたら経験していただろう甘い青春の思い出を選択をしたのです(ネタバレでスミマセン)。
全てを受け入れてあの世に行くというのに、犯人への復讐を遂げてスッとしたでは、本当の意味での受容にはならないと頭の中ではわかっていたのですが、どうしても理不尽に殺されたスージーや家族の怒りや悲しみの方に共感してしまっていたので、このラストには意表を衝かれてしまいました。
それで、冒頭の「この子はなんてきれいな心の持ち主なんだろう!わずか14歳なのにえらいなぁ」と思ったわけです。
ただ、映画だからこのラストも「あり」だとは思いますが、罪に対する罰の考え方が少しキリスト教的で、「悪いことをしてても神様がちゃんと見て罰してくれるので、自分が関わる必要はない」とも取れ、それでは法の意味がなくなり、本当にこれでいいのかという気持ちにもなりました。
そこらへんが「きれいな」映画であるにもかかわらず、今ひとつスキッとしない点であったと思います。
もし私がスージーの立場なら、映画の中のスージーと同じように、自分のためにいろんなことを犠牲にしている家族を見て、もう私のことはいいから自分の人生を生きて欲しいと願うでしょうし、逆に家族の立場なら、娘の敵はどんなことをしてでもとってやりたいと思うことでしょう。
どちらにしても、家族としては苦しいことです。
日本も理不尽な事件が起こる世の中になってきましたが、このような事件は起こって欲しくないと強く思う映画でした。
それにしても、主人公の子も、犯人もみんな演技がうまかったなぁ。
ラブリーボーン 2009年 アメリカ パラマウント ピーター・ジャクソン監督 135分
ストーリー重視派Ms.れでぃの勝手な映画採点:78点
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